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‘父の戦争体験’ カテゴリーのアーカイブ

軍艦武蔵は発見の連続

2009 年 9 月 5 日 Masa コメントはありません

またまた書いていますが、この軍艦武蔵という上・下巻に分かれた文庫本は、開くたびに大いなる発見があるのです。

例えば、海軍報道班員だった毎日新聞記者が、書いた記事で東条英機の逆鱗に触れて、2等兵として陸軍に引っ張られたけれども、海軍がうまく取り計らってくれて、海軍報道班員に戻った話は、たしか加山雄三がどれかの戦争映画の中で演じていましたが、そんなエピソード(「竹槍事件」と呼ぶらしいですが)もさりげなく出ています(下巻)。

それに、最も衝撃的だったのは、「ジャパンゲリラ」と呼ばれている所属部隊から離脱した陸軍兵の話で、彼らは単独行動の日本兵を襲っては、食料を奪い、場合によっては殺してその肉を食べたそうで、その一人に出会った「武蔵」の乗員だった人の話も出ていました(下巻)。

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鉄のくじら館と機雷掃海

2009 年 8 月 23 日 Masa コメントはありません

CIMG1843大和ミュージアムに行かれた方はご存じでしょうが、道路を挟んで斜め向かい側に、陸揚げされた海上自衛隊の退役した潜水艦と、その下をくぐった奥に展示用の建物への入り口があります。

何せ無料なので、大和ミュージアムと比較すると、展示内容や種類は少ないし、実際の艦内に入れると言っても、乗艦してみると、狭いし、味気ないしでがっかりする方も多いかも知れませんが、自衛艦なので仕方ありません。

子供の頃は当時海上自衛隊に勤務していた父に連れられて、自衛艦の中を何度も見せてもらっていたので、別に驚くようなことは特にありません。

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軍令部の番組から亡父の足跡を思う

2009 年 8 月 10 日 Masa コメントはありません

もう昨夜になってしまいましたが、軍令部の元将校達の証言テープをベースにした、日米開戦や真珠湾攻撃やミッドウェー作戦などの話を中心とした番組をNHKで行っていました。

この手の話は、戦後60年以上経ってしまったからなのか、どの局もあまり熱心には取り上げてくれません。

あえて言えば、NHKとヒストリーチャンネルくらいでしょうか。

キャスターも言っていましたが、当時の軍令部のまずい体質は、この21世紀になった日本でも、政治・企業・あらゆる組織において、全く変わっていない部分は多々あると思います。 続きを読む…

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父の写真

2009 年 4 月 30 日 Masa コメントはありません

あることを調べるために立ち寄った都立中央図書館で、父の参加した朝鮮戦争の機雷掃海の話もついでに調べることになりました。

そこで閉架のある資料を出してもらって読んでいたら…。

何と、機雷掃海に出発する当時の海上保安庁の職員が並んでいる写真の中に、若き日の父の姿が写っているではありませんか!

驚きました。

でもあっても決しておかしくはないので、このあたりの実際的な事に関しては、都立図書館だけではなく、国会図書館、それにUSの国立公文書記録管理局(United States National Archives and Records Administration, NARA)がらみの資料のアクセスなどを通して、もう少し詳しく調べてみようと思っています。 続きを読む…

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海の武士道

2009 年 2 月 17 日 Masa コメントはありません

父が亡くなってからはや一年。

呉の実家のいろんな残務処理みたいな事柄も、母の分を含めて少しづつ進んではいますが、ここで父の戦争体験を振り返り、出来る限りの資料を集めて、記録を残しておこうと思い立ちました。

特にソロモン群島での戦闘の話や、駆逐艦に乗っていた頃の話などは、まだ整理が出来ていない父の書斎にあった書棚の片隅を捜索してみれば、律儀に記録を残す父のこと、何か興味深いものが見つかるかも知れません。

そんなときに iPod touchで産経新聞を何気なく見ていたら。

海の武士道という書籍の宣伝広告が、両目に鮮明に飛び込んできました。

The Bushido over the Sea というタイトルで欧米でも出版の予定です。

これはさっそく買いだと書店に走りましたが、置いてあったのはあるマニアックな店だけ。夢中で読んでみて、過去の日本とイギリスの間に、そんな感動的な話があったのかと、非常に驚きました。

撃沈され漂流中の英国の将兵を、危険水域をも顧みず「敵兵を救助せよ」の命令により、乗員が総出で救助し、体の油や汚物を拭き、貴重な食料や水や衣服を与えた、日本の駆逐艦の艦長の話が、来日した元英国軍人のフォール卿の口から知られるところとなり、静かな感動が広がっています。

米軍関係者や英国民をも深く感動させたというこの話。ちょっと考えてみても、よーくわかります。

この手の場面では当時はどこの国の軍隊でも機銃掃射されるのが当たり前。だったので、英国将兵は驚き、感動し、感謝したのでしょうし、なにしろ駆逐艦は小型の戦闘艦なので、それでなくても狭い艦に乗員の2倍近くも収容して、病院船に引き渡したというのだから恐れ入ります。トイレだって足りないので、艦の外に張り出しで増設したり。

「困っている人がいれば、それが敵であっても、全力で救う。それが日本の誇り高き武士道であると認識した」というフォール卿の言葉は、『医龍2』の中で出てくるセリフとよく似ています。

ヒーローである工藤中佐も非常に謙虚な方で、戦後も表舞台に出ようとはせず、夫人とひっそりと暮らし、ひっそりと亡くなられたのだとか。

昨年が、日英外交関係樹立150周年。何か心に一陣の風を残していったかのような、とても爽やかな内容でした。

工藤艦長が英国士官達を前にしたスピーチの内容を簡単に紹介します。この英語も海軍兵学校仕込みの流ちょうなモノだったそうです。

You had fought bravely.

Now you are the guests of the Japanese Imperial navy.

I respect the English Navy, but your government is foolish to make war on Japan.

英語本の制作が遅れているようですが、日本人の心を正しく理解してもらうためにも、早く出版されないかなぁというのが本音です。


You Tube でこのテレビ番組でストーリーを再現した動画が見れます。まあテレビなので迫力や今の海上自衛隊の護衛艦そのものを当時の駆逐艦に見立てるなど、無理な部分mかなりありますが、それはそれとして、話自体はとても感動的です。

特にフォール卿ご自身が出演されているのが、印象的でした。

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「海猿」を見ていて思い出した、父の朝鮮戦争体験

2007 年 10 月 26 日 Masa コメントはありません

日本映画専門チャンネルで、先ほどまで「LIMIT OF LOVE 海猿」を再放映していました。前回も見たのですが、もう一度見たら、もう面白くて感動的で目が釘付け状態。

まさか自分がそうなるとは思ってもみなかったので以外でしたが、映画は楽しむものであって、自分の気持ちに素直になって楽しめば良いのに、ごちゃごちゃと評論家する人も一杯いて何だかとても残念なことです。

そういえば主演の伊藤君のサインが、呉冷麺(珍来軒)の店にもあったっけ。ロケで立ち寄ったんでしょうが、何かそれだけでも嬉しくなります。

この映画の海上保安庁の船を見ていて、父が朝鮮戦争の時に、機雷掃海の作戦に従事していたことを思い出しました。当時はまだ父も海上保安庁に勤めていたそうですが、両親がガンで入院していたのでその入院の費用を捻出するために、あえて危険な任務に志願したそうです。

必要に迫られての作戦だったのでしょうが、当時としては国際法の関係だったか、禁止事項でもあった極秘任務、しかも超危険。

実際、日本の掃海部隊が海岸に最も近い最前線で、その後に米軍の上陸用舟艇の部隊が控え、その後ろから戦艦ミズーリが艦砲射撃をしていたとのこと。

さすがに最前線は機雷と陸上からの砲撃のダブルで非常に危険であり、父の乗っていた掃海艇の隣の艇が、たしか触雷だったと思いますが、沈没したので、掃海部隊の司令官が帰投したい旨を米軍に通知すると、戦艦ミズーリからは、武器でも食料でも弾薬でも何でも提供するから頑張って欲しい旨の発光信号が帰ってきたそうです。

しかしそこまでの義務はないという司令の判断で、父の艇も下関に帰投したとのこと。

その時の遺族には米国及び日本政府から莫大な補償金が出たとか出ないとか、司令は命令違反で解任されたのだとか、まあいろんなことがあったようです。

それにしても太平洋戦争に加えて、朝鮮戦争まで体験して無傷で生還した父は、よほど幸運だったのでしょう。

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呉市の昔の話と、父の戦争体験

2007 年 10 月 23 日 Masa コメントはありません

呉に帰省していてわかったのですが、呉市の空襲では焼夷弾による無差別爆撃の様相を呈しており、その残虐ぶりは沖縄戦をも連想させるほど、かなり酷いものだったとか。

対する広島の原爆ですが、実は原爆投下までは広島には空襲はほとんど無かったのだそうです。その理由は、原爆による被害を正確に掴むためだったとか。何とも悲惨かつ論理的な当時の米軍の戦略には驚いてしまいます。

このあたりのことは、大和ミュージアムでもしっかり展示されているはずなので、訪れる方は大和の技術の素晴らしさや作戦などだけではなく、戦争の悲惨な面をもしっかりと学ばれることをお勧めします。

それにしても呉市に大和ミュージアムを作ろうと思い立った、館長の戸高氏の慧眼には感服させられました。入場者数が毎年100万人を超えるという現象は、何か不思議なものさえ感じさせます。

父と初めて大和ミュージアムに行ったときに、父から聞いた、大和に関する2つの話を思い出しました。

当時駆逐艦の乗組員だった父は、大和の公試運転の護衛の駆逐艦の一隻に乗っていたそうです。きっと直ぐそばで全力疾走する大和を見て、頼もしく思ったことでしょう。

後で知ったのですが、当時の日本の駆逐艦の技術も凄かったらしく、40ノット程度の高速艦もあったけれど、速度だけでは勝てないということで、設計方針が変更されたのだとか。

また、大和のドック跡の方向を見ながら、ミュージアムのボランティア案内の老人に父がそれとなく話していたのは、ドックの水を抜いた後の状態。ドックの床できらきらと輝くのは魚だったのだとか。なるほど、言われてみればそんなこともあるのかなと思わせる、釣り好きの父らしい観察眼です。

知人にも指摘されたのですが、父の戦争体験、特にソロモン諸島での話は凄く貴重で、本来は出版してもおかしくはない内容なのですが、本人はなかなか話してはくれません。

それは、あまりにも壮絶すぎて、思い出したくもない過去だからなのでしょう。

「海軍というところは、あまり良いところじゃなかったぞ」と言い放った、耳の遠くなった父の言葉が今でも自分の耳に焼き付いています。

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呉の風景と入院中の母と父の様子

2007 年 5 月 4 日 Masa コメントはありません

CIMG1060.JPG  CIMG1061.JPG

またまた呉に帰省して、母の容態と父の様子を見るとともに、主治医の先生方に話を聞いてきました。その間の暇な時間帯に、オープンして間もない「海上自衛隊呉資料館」、別名「てつのくじら館」にちょっとだけ立ち寄りました。

実は父自身も朝鮮戦争に掃海部隊の隊員として参加していたのですが、その時の話によると、機雷の作業で伝馬船を漕いで行かなければならない非常に危険な作業があったそうなのですが、他に誰もやる人がおらず、しかたなく自分だけで作業したのだとか。この時の掃海作業が自衛隊を設立するきっかけであったとか、米軍が落としまくった日本近海の機雷のお蔭で、旧日本軍→海上自衛隊の掃海作業は世界一になってしまったとか、過去の自衛隊が設立されたきっかけに思いを巡らせた方が、潜水艦自体の展示や逸話よりも、個人的には興味深かったのでした。

ただし一つだけ奇妙な事に気づきました。左の画像のように潜水艦のアンカー(錨)は、水上艦艇のものとは全く違って、マッシュルーム形状になっていてそれを艦に引き込む形で収容すること。なかなか変わっていますが合理的な発想でもあります。

それから呉市内を久しぶりに歩いてみたのですが、最も目立ったのが書店の数がめっきり減ってしまったこと。高校生や大学生の頃には、専門書もしっかりと分類したそれなりの大型書店が何店舗かあったのですが、いまではそれらは全くなくなり、変わりにそごうや駅ビルやその先の大型ショッピングモールのなかに比較的大きめの書店がある程度。活字離れなのか高齢者人口が多くなったからなのか、ともかく本の大好きな私や母にとっては、とてもつらい、見ていられない状況です。

また右の画像は両親が入院中の病院の最上階からの眺めなのですが、マンションの増えてきた呉の昔と変わらないのは、山の上の方まで家が建っている点で、これは自宅や広島からの呉線から呉駅に着く少し前に見える夜景の美しさに貢献しています。そういえば子供の頃に何度か登った呉市にそびえる灰が峰からの夜景の美しさには感動しましたが、まさかいろんなランキングで話題になっていたとは。シャッターの閉まった店の多い、ちょっと寂しい呉市ですが、大和だけでなく夜景だって素晴らしいのでした。こんなことでもちょっぴり嬉しいモノです。

母のほうは歩くことが頻繁になるように出来るだけ一緒に廊下出たりエレベータに乗ったりしてあげていると、どうやらリハビリの部屋も使えそうなのがわかったので、ガンの術後と言うよりも弱ってしまった足を鍛えて早く元気になって欲しい状態です。ただし先生の説明によれば、S字結腸のガンは腸の外側にまであったので、腹水の中に漂っていた物質の検査が終わるまでは予断は許されません。

父は数年前から耳が遠くなった以外は結構元気で、病院食以外にも少し食べたりするくらいなのですが、先生がCTで詳細に検査してヘルニアの可能性だとか、腫瘍マーカー値を上げている原因らしき極小のしこりを見つけてしまったので、そのあたりの疑いが完全に晴れることを祈るのみです。

というところで、あまり心配しすぎても始まらないので、ここらでがらっと気分を変えて、投資関係の話題にしたいなと。

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久しぶりに帰省したのは正解だった

2007 年 1 月 6 日 Masa コメントはありません

明けましておめでとうございます。
今年は、もっとアクセスアップする努力をすることと、オンリーワンのユニークなサイトにしてゆきたいと思っていますので、ご声援をよろしくお願い致します。

久しぶりに呉に帰省して、だいぶ前から足が悪くなってしまったけれども外出好きな母と、2度のガンの手術から回復してまた船に乗って鯛を釣りに行くんだと言っている父と会って(実は父は退職してから漁船を買い、漁協や呉の魚市場へも出入り出来る立場になっていたのでした)、年を取ったとはいえまだまだ元気な両親を見ていると、幸せなことなんだなあ、とつくづく思いました。

父は戦争の話になると俄然元気で雄弁になるので、少し前に送った、超超弩級艦「大和」建造(学研)というムック本を見せながら、呉海軍工廠や呉の歴史などの話をしていたら、「海軍ってところは、あんまり良いところでは無かった」とボソリといわれてしまいました。

よくよく聞いてみると、駆逐艦に乗っていたときに、明日は敵前上陸という段になってエンジンに必要な真水がとれなくなり、それが当時内科艇の機関長もしていた父のミスだと言い張って、話を聞こうともせずに思い切り殴った上官達に腹が立って仕方がなかったそうです。この時には危うく銃殺になりそうだったとのことでしたが、見ている人は見ているということで、副長が部下である父を信じてくれたことがありがたかったのと、修理のための工作艦が来てその担当者がすべての嫌疑を晴らしてくれたので助かったとのことでした。

また、大和型戦艦の3番艦だったはずの信濃が、ミッドウェーで負けてから航空母艦として大改装されて進水後、呉に回航中に潜水艦によって撃沈されてしまった時の詳細な記述などは、食い入るように読み、「こんな杜撰なやり方してるから戦争に負けたんだ」と一言。私もその部分を後で読んでみて、この信濃は進水式の時から事故があったり応急処置の出来るスキルのある乗員がいなかったりで、ずいぶんと不運な艦だったんだなあと同情してしまいました。

帰省中に用事があって広島市と呉市の中心地にゆく機会があったのですが、もの凄い人混みで活気のある広島と、シャッターが閉まった店が多く閑散としている呉市の対照的な光景を見て、何とかならないものなのかと。特に呉市内の中心街に存在した、高校生や大学生の頃にお世話になったことのある書店はその殆どがつぶれてしまい、新しい書店はそれなりだけれども個性がなく、間違いなく呉の「知」のレベルが下がってしまったことは、非常に残念。

それにしても呉には高層マンションがかなり増えました。それと大和ミュージアム効果なのかどうか知りませんが、歩道がやたらと広くて綺麗なのが非常に目立ちます。

インターネットを活用してもっとユニークないろんな試みが行われて、さびれつつある地方都市を活性化することが出来れば、もっと日本が根底から元気になるのではないか。特に今年大量に退職者が出ると言われている団塊の世代の方々の力も再結成して、面白いことが出来るのは、インターネットの有効利用だと思うんですがねえ。

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父の戦争体験(の一部)

2006 年 8 月 14 日 Masa コメントはありません

昨日は車のバンパーの傷磨きと一部の塗装をし、タッチペイントの小さい缶にエアー缶をつけての作業だったので残り少なくなった塗料を買いに行き、ついでにCDをコンパクトに入れるケース数個を買ってきてCDの整理作業を行ったらえらく疲れて寝てしまい、日付が変わって投稿することをお許し下さい。やはり一度にいろんなことをやろうとしたのがまずかったようです。

もうすぐ呉に帰省しますが、海軍出身の父も長い間、船の機関関係の仕事に就いていたことと何度か手術したことなどで難聴が進んでしまったので、今後はなかなか聞けないかも知れないので、今記憶にある話をほんの少し。

ソロモン群島のブカ島に上陸していたときのこと。戦闘の大変さよりも食料が無くなってきた事の方がもっと切実なので、最初は薬莢の火薬を使って魚を捕っていたそうですが、ドーンというものすごい音がしたと思ったら、椰子の木の上から、暴発によってバラバラになった戦友の死体が降ってきたこともあったとか。

さすがに危険すぎるのでやめて、原住民と一緒にタロイモを栽培したりするとともに、大型のトカゲ(これが意外と美味で貴重なタンパク源だったそうですが)を捕まえて食べたり、野生の牛がいたときは相手が倒れるまで1週間も追い続けたりしたけれども、それらもいなくなると、もうどうしようもなくなり、敵の基地に盗みに入るのはともかく、日本の司令部に入ったときに運悪く捕まってしまいました。

本来だったら銃殺刑ですが、父はトカゲを良く捕まえて司令部に持ってきてくれるトカゲ狩りの名人だということで、もしも三日三晩、水だけで生きていたら無罪放免になることに。その時に司令部付きの従兵が水を持ってきたのですが、飲んでみたら甘かったそうです。気を利かせて砂糖を入れてくれていたそうですが、さすがに彼の心遣いが嬉しかったとも。

当時の司令部の床下には、梅干しや奈良漬けなど、現地ではとても見られないような食料がごっそり隠してあり、一般の兵は生きるか死ぬかの極限状態でがんばっているのにと、非常に腹が立ったそうです。

玉砕した島が多かったのに、九死に一生を得で、ようやっと広島県のとある島にあった実家にたどり着き「ただいま」と玄関を開けた途端、マラリヤの高熱で倒れたのだとか。

すみません。内容にまとまりがつかないので、この続きはまた別の機会に。

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